センディくんの株式冒険日記 > 須田徹也 > 日本の思想
という本を読んでみました。
目次
1. 日本の思想
2. 近代日本の思想と文学
3. 思想のあり方について
4. 「である」ことと「する」こと
日本の思想という題名の通り、日本の思想を網羅的に紹介していく、日本思想史を追う、といった本ではありません。第1,2章では戦後思想の歴史的な、論理的な背景を述べています。ここが非常に難しい内容で近代日本思想史、近代日本政治学史などをある程度把握しておく必要があると思われます。
この第1、2章から何とか汲み取れたことは
・明治時代の日本において、欧米のように思想・科学的基礎がなかったために欧米の思想、科学を丸ごと輸入するという事態になった。この基礎がないというのが問題で、欧米、特に大陸側においてはローマ時代、ルネッサンス以降は思想・科学の段階的発展があったために「新しい思想」が「古い思想」と常にどのように違うことが意識されてきたが、日本においては「古い思想」が何なのか把握せずに「新しい思想」を受け取ったために「新しい思想」の本質を掴むことができなかった。
・日本ではマルクス主義が「新しい思想」であり「新しい科学」として受け取られた。そのため、戦前において、マルクス主義が「科学」であり「思想」そのものなのだ、という風に考える人が非常に多かった。
・日本において思想の段階的発展がなかったのは、日本の文化が「多少の差ならないものとして受け入れる」という過剰に抱擁的な精神に由来していると思われる。
・日本の思想の根本にあるのは儒教でも仏教でも神道でもない。それらを雑居に整序せずに配置する精神である。つまり、何の思想も捨てずにとっておくし、インプットを制限しないから、闇鍋的な思想ができあがる。そして、それはある時々において浮かび上がるものが儒教であったり仏教であったり神道である、という風になる。
・このような闇鍋的な、雑居な思想では日本の統一が困難だと思われたので、日本の思想の基軸として天皇制、「國體」を創出した。天皇制は日本を統一するために必要な装置だったのである。
ほとんど第1章の内容になってしまいましたが、こんなことが書いてあったように思えます。第2章は主に科学・文学・政治の関係について述べられているのですが、これはもう理解するのに疲れました。
第3、4章は非常にわかりやすい内容で、短く言ってしまえば、第3章は「日本においては、学問は輸入されてきたので学者は学問が元々は一つであったことを理解していない。そのため、学者の間で共通の基盤がなくジャンルが異なる学者間の論争が不毛な結果に終わる。このようなタコツボ的な状態は問題である」ということですかね。第4章は、「過去から現在に至るまでの歴史は「である」ことから「する」ことへの移行といえる。「である」とは属性、状態であり、「する」とは行動である。つまり、人はその属性(血縁、土地、身分、等々)ではなく行動によって測られるべきなのである」というようなことです。
第1、2章は難しい内容でしたが内容自体は非常に良いものであるという意見が多いですし、全体として見ても良い内容であると思うので、日本人としては目を通しておいた方がいいかもしれません。